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ミラノの幽霊


幽霊がいるとカメラが壊れたりすると話を聞いた時、そういえばと10年前にミラノに行った時のことを思い出しました。

まだ母は生きておりましたが、難病であることがわかり5年生存率は20%程度だと知らされたころです。助かるのなら何でも試したいと試行錯誤していた時期。このブログを読まれるとおわかりになるかもしれません。思い立ったかのようにミラノに行こうと決めました。僕が小さい頃から何かに惹かれるようにヨーロッパ、特にイタリアには何かがあるだろうとずっと感じていました。漠然としたもので何があったというわけではありません。とりあえずアリタリア機でマルペンサへ向かったのです。イタリア語もほとんどわかりませんし、何しろ英語もしゃべれません。病気の母を残してなぜかふと旅に出ました。

機内で国内某クルマメーカーのデザイナーと隣同士になり、このまま人生を終えるのでは無くて何とかしたいという話で北極上空を越えるまで話し続けました。こんな出会いも僕の心理を反映させたのでしょうか。彼はトリノに行くといい、僕はとりあえずミラノに行きますとマルペンサで別れました。初めてのイタリアミラノ、マルペンサ。市内のホテルに向かわないとと友人に聞いたマルペンサ・エクスプレスの駅を目指します。日本人は僕しかいませんでした。駅で「ミラノカドルナ・プレファボーレ」が生まれて始めて使ったイタリア語です。イタリアに着いた当初から何か風景が皆セピア色に感じられます。照明の感じがそうだったのでしょう。初めて来た感じがしないというのでは無くて、セピア色の風景です。少し郷愁漂う、これは何だかわからないです。


列車はマルペンサを出ます。高い建物が無くて外は草原が広がっているように見えます。街灯も少なく踏切を待つクルマが並んでいます。その風景を見て、あぁ田舎。。。戻ってきたと思いました。ここが田舎なら良かったなぁという希望的な思いもあったでしょう。でも懐かしさ感じます。無事にホテルにつけるか自信の無い自分が、窓の外を見て帰ってきたと感じる安心感。不思議な感覚です。カドルナに着くと急いで出口へ、タクシーがいないともうどうしようも無いのです。地図も無いし、住所も良くわからないし、英語もイタリア語も出来ない。今思えばよく行ったなと。客が4グループ、ちょうどタクシーも4台。シトロエンに乗ることが出来ました。ミラノの街並みを見てもここミラノなのか。とやっぱり郷愁感があります。このマセラッティクワトロポルテを見て、この感じだよなと。





今回は短く書いてしまいますが、翌日、近所にドゥオーモがありますので、写真を撮りにとりあえず向かいました。成田から時々写真を撮り続けていて、ホテルでも何枚か。そしてドゥオーモへ。聖堂の横から1枚、すると何かノイズがパチパチと入り始め、シャッター押しても撮れなくなってしまいます。その写真が下記。


しまったと当時の携帯のカメラではもう使えないもので、この旅行の写真は無しになってしまうのかと、ちょっとホテルに引き返しました。ホテルに引き返してもどうしようも無いのですが、が、部屋に戻るとこのとおり、撮れます。


それでなんだ調子悪いだけかとその時は何も考えずまたドゥオーモへ戻ると今度は何も無かったように撮れ始めます。中に入るとイタリア人に帽子を取れと注意されました。周りの観光客は皆帽子をかぶってるのに僕はしょうがなくニットキャップをとります。ドゥオーモは素晴らしくて、写真も撮りまくりまして、地下もあるのかと地下に向かいました。そこで思いついたのが、地下に眠る大司教にお願いをしました。どうか延命をお願いしますと。父親の延命の願いを叶えてくれた神様がいます。どうか母親の延命もお願いします。と願いました。その場所が下記です。


この後、ミラノを周りました。確かに美術館に行っても、多分、母が喜びそうなものばかり、恐らく親の趣味が子どもの僕に移ったのでしょう。するとポルディペッツォーリ美術館で、母と同い年の日本人に声をかけられ、いっしょにランチを食べることにしたのです。予約が無いとまともなリストランテには入れないのですが、何とかならないでしょうか?と当時どんな言葉で喋ったのかわからないのですが、店主は母親らしき人を連れた日本人と思ったのでしょうか?よし入れとさっと入れてくれたのを覚えています。するとその店はあっという間に満席。本当に席なんて空いてないのです。ワインも飲むかとグラスワインを下さいというと、グラスワインなんか無くて、、、じゃぁいいやと断ると、サービスだと1本出てきました。なんでこんなに良くしてくれるのか当時わかりませんでした。どうもミラノの人は親を大事にする人には好意的なんだそうです。今はわからないですが。その後日本に帰って、母親に土産を渡しました。ミラノでの出来事はまるで目の前にいる母親といっしょにいたかのような出来事でした。ドゥオーモで出会った幽霊が導いたのか、大司教のおかげか。その後、5年ほどで母親は亡くなります。

その数年後に今度はパリに行くと、ルーブルのレストランで同席いいかしらとフランス人のおばさまに声をかけられます。今度は僕の祖母にそっくりなのです。70代かと。ロンドンから帰るユーロスターでも隣に座るフランス人の中年男性、彼は死んだ父にそっくり。年齢は40代、父は40歳ほどで亡くなっています。もう何かなんだかわけがわからないのですが、ずっと頭の中でシャルルなんとかって聞こえます。この話はまた今度書こうかな。皆さま、親は大事にして下さいね。
自由が丘でノラ子達と暮らす外資系企業マーケターです。次の違う人生を考えながら、街のノラ子、世の流れ、はたまた超常現象など書いていきたいと思います。

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